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1.船上の夜
健康的に焼けた褐色の肌に、生々しい傷跡。
白い綿布の下から顔を出したそれに、ジャーファルはわずかに眉根を寄せた。
痛みますか、という問いが喉まで出掛かったのを、唇を噛んで押し留める。
それを聞いて安心したいのは、ジャーファルの弱さに違いない。
問えばきっと、シンドバッドはたいしたことはないと笑ってくれるだろう。
頼もしい主人。人の不安を鎮め、支えられる強さを持った優しい王。
彼自身の身を削って与えられるとわかっていて言葉を乞うなど、ジャーファルの矜持が許さない。
傷の程度など、こうして直に目にすれば確かめるまでもないことだ。
細心の注意を払って、手当を進める。
解いた包帯に滲む血痕は数限りなく、同じだけの傷が彼の身体のそこかしこに刻まれている。
その一つ一つに処置を施し、新しい包帯に取り変える。まさに満身創痍の状態に、やりきれない思いがした。
黒いジンとの戦いでは、我が身を省みず危険な役目を買って出たのだろう。
その状況を打開するために必要だと判断すれば、命懸けで挑むことを厭わない男だ。
しかし、今回のこれは一国の王が他国のために払うことの許される犠牲の範疇を大きく逸脱している。
その生き方がシンドバッドを死に追いやる日が来ないかと、ジャーファルはいつも気が気ではない。
思わず漏れそうになった溜息を噛み殺し、ジャーファルはそっと、主の様子を盗み見た。
珍しく無口な王は、寝台にうずたかく積み上げられたクッションにぐったりと身を預け、
どこか心在らずといった風情で窓の外を眺めていた。
(…………)
ジャーファルも、黙々と手を動かし続けた。
シンドバッドの抱える重圧と苦悩、その全てを分かち合うには、自分では役不足だとわかっている。
だが、国民や官吏の前では、彼らを安心させるため常に悠然と構えている彼が
こんな無防備な姿を晒してくれているのは、自分への信頼と取るべきだろう。
だからジャーファルは何も言わない。
シンドバッドが思いを巡らせるべき事柄があるのなら、自身の不安など瑣末な事なのだ。
寝台横の台の上で、瓶の中の消毒液が規則正しく揺れていた。
懐かしい感覚だ。
シンドバッドがまだ王ではなかった頃には、
陸で過ごすよりもこの揺れに身を任せる日の方が多かったくらいだった。
バルバッドを後に、海原を滑るように進む船を包むのは、満天の星空と潮騒だけだ。
日はとっぷりと暮れ、長過ぎた一日がやっと終わろうとしていた。
子供たちは眠りにつき、マスルールや非番の水兵達も自室で休んでいることだろう。
薬箱に、使い終えた道具と薬品をしまう。
背中と肩、足の傷の処置を終えてしまえば、できる事はもう残っていなかった。
シンドバッドはと言えば、相変わらず窓の外を見ている。
ほとんど真っ暗なそこに、一体何を見出そうとしているのだろう。
あるいは闇に魅入られているのではと、一抹の不安が頭を過ぎった。
何にしろ、やるべきことが終わった以上、早く王を休ませるべきだ。
ひとしきり迷った後、ジャーファルは意を決して口を開いた。
「……シン」
「…………」
応えが無い。僅かに首を傾げてもう一度呼んだ。
「シン?」
「…………あぁ、ジャーファル。どうした?」
緩慢な動作で、シンドバッドがこちらに目を向ける。
怪訝に思い、立ち上がって王の頬に触れた。
それでも反応が鈍い。原因に思い当たり、顔をしかめた。
「シン……昼に差し上げた痛み止めの薬が効きすぎているようですね」
「……なるほど、どうやらそのようだな。感覚に現実味がない。
……あてもない考えばかり浮かんでは消えて、覚束ない……変な感じだ」
「……強い薬でしたから、無理もありません……」
薬とは名ばかりの、麻痺毒性を持つ植物を用いた即効薬。
効果を弱めてあるとはいえ、毒薬には違いない。
痛みを一時的に消し去るだけで、根本的な治療には寄与しないばかりか、身体には大きな負担を掛ける。
そのろくでもない薬を、ジャーファルは自分用に所持していた。
シンドバッドに何かあった時、痛みが邪魔をして身体が動かなかったでは済まない。
その場凌ぎでしかなくても、この身を盾にするくらいはできる。
実際、迷宮攻略の最中に一度、使ったことがある。
薬の効力を知ったシンドバッドはいい顔をしなかった。
自分を粗末にするんじゃないと叱られて、ジャーファルは頷いたが、薬を携行することは止めなかった。
言わなければばれない、と思ったのは結局ジャーファルの浅知恵だ。
今も持っているんだろう、と問われて、その言葉が意図するものに、背筋が冷えた。
こんなものを、シンドバッドに渡したくはなかった。
けれど、雪崩を打って押し寄せてきた煌帝国の船団と対等以上の交渉が可能な人間など、彼をおいて他になかった。
そうでなくても、世界の異変に巻き込まれ、大きな傷を受けたバルバッドの人々に、
これ以上の受難が降りかかるのを見過ごせる人ではない。
王の強い意志を宿す視線に抗えるはずもなく、ジャーファルは震える指で、その薬を差し出したのだ。
「……念のため、通常の薬との併用は避けた方が良いでしょう。
効果が切れるのを待って、鎮静剤を投与します。
長くてあと二、三時間でしょうから、痛みが戻ったらすぐ、私に声を掛けて下さい」
苦い思いを飲みこんで、極力平坦な声を心掛ける。
するとシンドバッドが、不満げな顔をしてジャーファルを見た。
「二、三時間ってお前ね……。それまでここで見張ってるつもりか?
いいから、部屋に戻って休みなさい。後は俺が、痛くなったら薬を飲めばいいんだろう?」
ランプの灯りで照らされた琥珀色の瞳が、ジャーファルの姿を温かく映している。
こんな時に、殊更親が子に諭すような物言いをするのは、出逢った頃から変わらないシンドバッドの癖だ。
だが今は、その慰撫に身を任せる気には到底なれない。
「シン」
「わっ……!」
シンドバッドの両手を、自分の手で包み込んでそっと握る。
左手に巻かれた包帯の下にあるのは、ジャーファルのせいでできた傷だ。
「振り払うことができますか?」
「……ジャーファル」
力なんて込めていないのに、シンドバッドは自らの手の自由一つ奪い返すことができないでいる。
鈍い痛みが、ジャーファルの胸をずきりと刺した。
「我が国の船舶の中とはいえ、不届きな輩が潜んでいないとも限りません。
今のあなたを害することは、赤子の手を捻るように簡単なことです。違いますか?」
「そんな危険はない――と言っても聞かないんだな?」
王が乗る船だ。当然、警備はジャーファル自身が采配を振るい徹底させている。
シンドバッドはそれを承知の上で、危険はないというのだ。
――だが。
「シン……あなたの命は、もうあなた一人のものではありません。
外敵だけでなく、あなたの容体にも万全を期さなければ。おわかりでしょう?」
「…………」
シンドバッドが一国の国王である以上、誰かがその安全と健康双方に目を光らせていなければならない。
であるならば、シンドバッドが余計な気を張らないためには、昔馴染みのジャーファルは適任だろう。
……本当は、シンドバッド以上にここに居る必然性があるのは、ジャーファルの方だった。
こんな状態のシンドバッドと引き離されて眠ることができるほど、太い神経はしていない。
無論、そんなジャーファルの弱さまでもシンドバッドの思慮の範疇だったに違いない。
程なく、彼は溜息と共に、ゆっくりと頷いた。
「わかった」
了承を聞き届け、ジャーファルは大切に捧げ持っていた王の手をそっと解放する。
するとその途端、放したばかりの手が、ジャーファルの手を捕まえた。
「!?」
「だがジャーファル君、条件があるぞ。君もここで眠りなさい」
シンドバッドはもう片方の手で、ぽんぽんと寝台の上、自らの傍らを叩く。
「……何を言ってるんですか、シン」
王の警護と看護、いわば職務を帯びてここに残るのだ。
任務中に、ベッドの中で眠りこけるなんて冗談じゃない。
だが、シンが寄こしたフォローは絶句ものだった。
「今更、戸惑うような場所でもないだろう?」
意味ありげな視線に言外の意味を汲み取り、かっと頭に血が上る。
「っ!! 誰のせいですか、誰の!」
「変な事はしないさ」
「あんた馬鹿ですか! 当たり前ですっ!」
薬のせいで朦朧としているからだろうか。あるいはこれが素なのだろうか。
シンドバッドに翻弄されるのは毎度のことなのだが、ここまでくると考えるのも馬鹿馬鹿しくなってくる。
ジャーファルは盛大な溜息と共に、無造作にこめかみを押さえた。
「ともかく、お前が頑なに椅子に座ったまま一晩と言うなら、俺は他を当たるぞ」
「そ、れは!」
……確かに、シンドバッドの健やかな眠りを守ることができる者であれば、
傍に侍るのはジャーファルである必要はない。
痛いところを突かれて、舌を巻く。
どんな状況でも、腐っても七海の覇王。ジャーファルが膝を折るただ一人の王だった。
「ジャーファル、もしお前が疲れを感じていないなら、それはただ神経が高ぶってるだけだ。
なおさら休息は必要だ。賢いお前にわからないはずはないな? ――さあ、どうする?」
「………………。……わかりました」
渋々、ジャーファルはシンドバッドの提示した条件を受け入れた。
◆
「痛みが戻る頃、おそらく傷から来る発熱も起こるはずです。
ある程度であれば、熱冷ましは使わない方が効果的ですが、辛かったら無理しないで下さいね」
「ああ」
頭巾を外し、身に着けていた上衣と前掛けも脱いで畳む。そして先ほどまで腰掛けていた椅子の上に置いた。
次いで半身を起していたシンドバッドに手を貸し、クッションをどけて身体を横たえさせる。
「後は、水分補給と着替えは欠かさないで下さい。風邪まで引いたら洒落になりません。
シンドリアであなたの帰還を心待ちにしている者達に、無用な心配をかけたくはないでしょう?」
「はいはい、わかったから」
言外に、早く寝ろと言いたげなシンドバッドの返事に、軽く息をつく。
壁に備え付けられた灯りを極限まで絞って、手元のランプの灯は吹き消す。
そして、寝台の端、シンドバッドの眠りを妨げない場所に静かに滑り込んだ。
「それじゃあ、おやすみ。ジャーファル」
「おやすみなさい、シン」
言葉を交わした後も、ジャーファルは目を閉じずに天井を眺めていた。
様々な事がありすぎて、終わったのだと言う実感が湧かない。
天井の模様は船旅の度に見慣れたもので、
遠く聞こえる潮騒も、シンドバッドの呼吸の音も、ひどく馴染み深いものだった。
我知らず安堵が込み上げる。
生まれ故郷も家族もおぼろげな記憶の中にしかないジャーファルにとって、
シンドバッドの傍らこそ、帰るべき場所だった。
そんな場所をジャーファルに与えてくれた王はと言えば、どうやら寝入り損ねているようだ。
呼吸が睡眠中のそれではなく、気配も彼が起きていることを知らせてくる。
身体は消耗を回復するための休息を欲しているはずだ。
それでも眠れないということは、何かあるのだろうか。
「シン……眠れないのですか?」
「……いいや……あぁ、そうだな。可笑しな夜だ。どうにもならないことばかり浮かんできて、何ともし難い」
少し疲れた声が、素直に白状する。
ジャーファルは静かに上半身を起こして、シンドバッドの顔を覗き込んだ。
絞ったランプの光源だけでも、夜目の利くジャーファルには十分な灯りだ。
薄闇の中、シンドバッドは何とも言えない表情を浮かべていた。
その胸に燻ぶる懸念とは何なのだろう。
何にしろ、言葉で吐き出すことができるものなら、発散させてしまった方が負荷が少ない。
「何か気がかりな事があるのですか? 私でよければ、明日何なりと手配を致しますが」
「いや、お前の範疇じゃない。アリババ君達が安心できる環境を整えて、
この船がシンドリアまで恙無く辿りつけるようにしてくれれば、充分すぎるくらいだ」
「それじゃあ何ですか? バルバッドの人々の今後とか?」
「……それは、不安がないわけじゃないが。あれだけの苦難を乗り越えた人たちだ。立派にやっていくだろう」
少し歯切れの悪い言葉に苦笑する。
もし彼が、自由気ままな船乗りのままであったなら、再建が立ちゆくまで彼らと共に汗を流しただろう。
内政干渉はしない主義だと語った時も、やせ我慢が透けて見えた。
実際、政治には介入せずとも状況を打破するために動くことは諦めなかったではないか。
これが、王になったことで彼が失った自由の一つだ。
幸いなことに、見届けることができないだけで、バルバッドの人々はちゃんと暮らしを再建するだろうが……。
――だとしたら。
シンドバッドの懸念に見当がついて、ジャーファルは苦笑した。
「わかりました、ジュダルでしょう」
「…………ジャーファル」
「あなたもとんだお人好しですね。これだけの傷、誰に付けられたか忘れたわけじゃないでしょうに」
「…………」
シンドバッドの顔が逡巡に歪む。
その時点で図星だと白状したようなものだ。
なお言葉を発せないのは、王の不器用な優しさだ。
そんな遠慮は必要ないのだと伝えたくて、ジャーファルはシンドバッドの髪に手を伸ばし、
額に掛かるひと房を優しく払ってやった。
シンドバッドがぱちくりと目を瞠る。
「もしあなたが王でなかったら、どうにかしてやれたかもしれないと、そうお考えですか?」
「……そこまでは、な。ただ……俺が王でなければ、どうにかしようと動いただろう。
もしそうしていたなら、あいつの今は違ったものになっていただろうかと、考え出したら止まらなくなった」
シンドバッドが自嘲の笑みを浮かべる。
陽の光の下、沢山の人々を前に、彼がこんな表情を晒すことはもうない。
人の不安を掻きたててまで、自分の迷いを吐露することなどない。
それが七海の覇王シンドバッドの生き方であり、強さなのだと知っている。
「……情けないことを言った、忘れてくれ」
「情けない? どこがですか。
むしろあなたは情け深いんですよ。私なら、敵にまでそんな情けを掛けていられません」
そんなシンドバッドに出逢ったからこそ、ジャーファルの今がある。
自分の身に余る僥倖と、誇らしい主の資質に、自然と笑みが浮かんだ。
だが残念なことに、今夜の少し弱気になったシンドバッドは、それくらいで釣られてはくれなかった。
「王でなかったらなんて考える時点で、情けなくて不謹慎だよジャーファル。
ましてや、国民であり、王である俺に尽くすお前の前で、口に出すべき言葉ではなかった」
「――シン。言っておきますが、私があなたに尽くすのは、あなたが王だからではありませんよ。
……あなたが本心から国王の座を降りたいとおっしゃるなら、
それがあなたの幸せに繋がるなら、私に否やはありません」
シンドバッドが、複雑そうな顔をした。
ジャーファルの言葉に潜むジャーファル自身の願望を嗅ぎ分けようと、こちらに神経を集中しているのがわかる。
だが、ジャーファルだって真剣だ。
負けじと、闇に光る琥珀の瞳をひたと見据える。
根競べがどれほど続いたことだろう、やっとシンドバッドが口を開いた。
「どんな俺でも? ジャーファル。俺にはこの生き方しかできない。他の道なんてないも同じだ」
王の答えは、ジャーファルの予想に違わぬものだった。
ジャーファルだって知っている。
これはシンドバッドの選んだ道だ。生き方だ。
――いや、この優しい王の器は、このやり方でしか生きられないのだ。
「それならそれで構わないのです、王よ。あなたの思うままに。
あなたがお許し下さる限り、どこへなりとお供致します」
あらゆるしがらみを超えて、せめて心だけは自由で居て欲しい。
そんな願いを込め、己の手と手を胸の前で組んで、頭を垂れる。
ジャーファルの略式の臣下の礼に、シンドバッドは少しの逡巡の後、王として応えた。
「……。苦労を掛ける」
「何を今更」
ジャーファルは微笑んだ。本当に今更のことだ。後悔も遠慮も無用だった。
シンドバッドが望む道を進み続けられるようにするために、自分にできることがある。
それはむしろ、ジャーファルの喜びであり、幸せでもある。
彼がその生き方を貫くためにボロボロになっても、それを見るのがどんなに苦痛でも、
彼の行動を阻むという選択肢はジャーファルにはない。
――それは畢竟、彼の自由を奪うということだからだ。
「シン、……そろそろ眠れそうですか?」
「……そうだな」
先ほどから、彼の言葉が少しずつゆっくりになっていた。薬の効果の波が来たのだろう。
ジャーファルは少しだけ考えた後、シンドバッドの右手を取って、そっと包んだ。
ずっと昔、眠れない夜には、こうして手を握っていてくれたのを覚えている。
そうしていると不思議と、どんな悪夢も怖くなくなった。
「ゆっくりおやすみなさい、シン」
「……あぁ」
間もなく、穏やかな寝息が聞こえてきた。
ジャーファルはじわりと満たされた気持ちになって、握ったその手を自らの額に押し当てた。
彼の傍らで、この温度を感じていられることが、至上の幸福だと知っている。
じわりと涙が滲んだ。
駄目だ。
こんな時に、こんな所で泣いてはいけない。
ジャーファルはぐっと息を詰めて、嗚咽を噛み殺した。
――やっと訪れた王の安らかな眠りを、決して妨げないように。
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2011.7.17発行「強くて弱い人」の1章部分になります。
また、シーンが飛びますが年齢制限の必要なページのサンプルをpixivで公開しております。
制限に掛からない方は、よろしければそちらもご覧下さいませ。
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